記憶とメディアの関係

このニュースを読んでマイケル・D. コウの「マヤ文字解読」の序文に書いてあった、古代ギリシアの思想家が文字や書物をどのように考えたのかという話を思い出した。

マヤ文字解読

マヤ文字解読

「目に見える話し言葉」としての文字表記を最初に発明したのは、約五千年前のメソポタミア下流域のシュメール人であり、またほぼ同時期の古代エジプト人である。今や文字に依存しきっているわれわれにとって、これは人類史上の大発明のひとつであったといえるだろう。ヴィクトリア朝中期に近代人類学を実質的に生み出したといえるエドワード・タイラー興は、「野蛮」から「文明」への人類の進化は、文字を持った結果であると主張した。しかし古典古代〔古代ギリシア・ローマ〕の思想家の何人かは、文字がそれほど大きな恩恵であるとは思っていなかった。

例えばプラトンは、書かれた言葉は話される言葉よりも間違いなく劣っていると考えていた。彼は『パイドロス』の中で、ソクラテスに次のようなエジプトの古い神話を語らせている。エジプトの神テウト(トート)は、文字を発明した。同時に、算術、幾何学天文学、さらに「チェッカー(盤上ゲーム)やサイコロ(すごろく)などの数々のゲーム」を発明した。そしてその発明品をたずさえて、エジプトの神々の王であるタモスのもとに行き、これらすべてのエジプト人に広めるべきであると主張した。タモスやそれをひとつひとつ検討した。文字に関して、テウトはこう言った。「王様、これはエジプト人の知恵と記憶力の両方を高めるものです。私が発見したのは、記憶と知恵の秘訣なのですから」。しかしタモスはそうは考えなかった。「文字の生みの親であるあなたは、自分の創造物への愛情にほだされて、文字の機能をまったく逆に考えておられる。ひとたび文字を手にすると、人々は記憶力を使うことを怠り、忘れっぽくなってしまうだろう。彼らは書かれたものに頼って、自分の内部から記憶を引きださなくなり、かわりに外部の記号によって記憶を呼び起こすようになるだろう。あなたが発明したのは、記憶力向上の秘訣ではなく、記憶を呼び起こす秘訣なのだ」。人々は、正しく教えを受けることなしに、書かれたものだけからたくさんの情報を受け取るようになるだろう。彼らは一見知識があるようにみえるが、実際には無知になってゆくだろう。

ソクラテスプラトンの『対話篇』の中で、文字は真実を探求する助けにはならない、と力説している。彼は文字を絵画と対比させてこう言う。絵に描かれた人物は一見生きている人と同じように見えるが、問いかけても答えは何も返ってこない。書かれた文字に問いかけても、永遠に同じ答えが返ってくるだけだ。書かれたものは、ふさわしい読み手とそうでない読み手を見分けることができない。誤った使い方をされたり、不当に濫用されたりしても、書物は自らを弁護することはできない。しかしそれとは対照的に、弁論法によって見いだされた真実ならば、自らを弁護することが可能である。つまり、話される言葉は書かれた言葉に勝っているのだ!

(強調はnminoru)

メディアが記憶のあり方を定義するということは、はるか昔からおこっているのよね。
一方、ソクラテス(実際はプラトン)の「彼らは一見知識があるようにみえるが、実際には無知になってゆくだろう」という指摘はどのようにとらえるべきだろうか。