銀河帝国マクドナルドの初代皇帝はレイ・クロック

マクドナルド帝国の皇帝は、マクドナルド兄弟というよりはレイモンド・アルバート・クロックだよね。
以下、エリック・シュローサーの「ファーストフードが世界を食いつくす(原題:Fast Food Nation)」による。

ファストフードが世界を食いつくす

ファストフードが世界を食いつくす

1954年、ミルキシェイクミキサーの販売をしていたとき、初めてレイ・クロックは、サンバーナディーノにある新しい"マクドナルドのセルフサービスの店"に足を踏み入れた。マクドナルド兄弟は誰よりも多くの台数を注文してくれた。クロックの販売するマルチミキサーは、一度に五杯のミルクシェイクをこしらえる。なのにどうして、この兄弟は八台も必要なのだろうかと、彼は首をかしげた。それまで数多くの料理店の調理場を訪れて、あちこちでマルチミキサーの実演をしてきたクロックも、マクドナルドのスピーディーサービスシステムに相当するものは、目にしたことがなかった。彼はのちに、こう書いている。「初めて見たとき、第二のニュートンになったような気がした。アイダホのじゃがいもが落ちてきて、頭の上で跳ねたというわけだ」クロックは店を"セールスマンの目で"眺めて、国じゅうの交通量の多い交差点に、それが出店したさまを頭に描いた。
リチャードと"マック"のマクドナルド兄弟は、そこまでの野心を抱いてはいなかった。すでにもう、年間10万ドルという純益を店から得ている。当時の貨幣価値では莫大な額だ。大きな家も所有し、キャデラックも三台ある。そもそも、あちこち飛び回るのは気が進まない。せんだっても、カーネーション乳業がミルクシェイクの販売増を当て込んで、マクドナルドの店舗数を増やしてはどうかと提案してきたのを、きっぱり断わったばかりだ。だが、クロックはおかまいなしに、マクドナルドを全国的にフランチャイズする権利を売ってほしいと口説いた。兄弟は家を離れなくてもいい、クロックが国じゅうを回って、ふたりをいっそう金持ちにする、と。契約は成立した。何年かのちに、リチャード・マクドナルドは、クロックとの最初の出会いについて、すなわち世界最大の外食チェーンの誕生につながる瞬間について、こう描写した。「あの小男は入ってくるなり、「高い声で『こんにちは』と言ったんだ」

ここだけを読むとレイ・クロックとマクドナルド兄弟の出会いは、スターバックスコーヒーの中興の祖ハワード・シュルツ会長を思わせるエピソードだ。しかし、この後はダークサイドに落ちた暗黒卿クロックの恐怖政治の話が続く*1

  • 1972年、クロックはファストフード事業に対する高尚分析を一蹴して、ある記者のインタビューにこう答えている。「いいですか、これを産業と呼ぶなんて、ばかげていますよ。そんなものじゃありません。これは鼠が鼠を食い、犬が犬を食う争いです。殺られる前に、相手を殺る。アメリカは適者生存の社会ですからね」
  • (クロックは)なにしろ、ひどく負けず嫌いな男で、隙あらば相手を打ちのめそうとねらっていたのだ。あるとき事業のライバルについて、「あいつらが溺れて死にかけていたら、わたしはその口にホースを突っ込んでやるよ」と言ったという。
  • (クロックは)新興宗教のカリスマ的指導者と同じように、店を任せる相手には、それまでの人生をすべて捨てて、マクドナルドに全身全霊を捧げるように要求した。相手がどこまで本気かを見極めるために、自宅からはるかに離れた店をあてがい、他の仕事に関わることも禁止じた。店を持つ者は、マクドナルドの店ひとつを頼りに、新しい人生を始めなければならない。クロックの命令に逆らったり無視したりすれば、二軒めの店を持つことはぜったいにできない。

そしてクロックは7年後にマクドナルド兄弟と決別することになる。

1960年代から1970年代にかけてのマクドナルドは、1990年代のマイクロソフトによく似ていて、多くのにわか長者を生み出した。マクドナルド社が苦難の時代にあって、資金がまだ不足していたとき、クロックは秘書の給料を株で支払っていた。10パーセントの配当金がのにちに莫大なものとなり、秘書のジェーン・マーティノは退職後、海の見えるパームビーチで快適に暮らした。一方、秘書の取得額をはるかに下回る額しか得られなかったのがマクドナルド兄弟で、ふたりは、マクドナルド社の1961年の収入の0.5パーセントと引き換えに、権利を譲渡した。税金を引くと、兄弟が手にしたのは、100万ドルずつだった。もし、ふたりが権利を売ってしまわずに、会社の収益分配を要求していたら、年に1億8000万ドル以上の収入になっていただろう。
クロックとマクドナルド兄弟との関係は、最初から険悪なものだった。クロックは兄弟に対してひどく腹を立て、自分が"実を粉にして、額に汗してガレー船の奴隷のように"働いているとき、ふたりはぬくぬくと懐を肥やしていると言った。当初、クロックが同意したのは、会社の管理システムいっさい変えないという法的権利を、マクドナルド兄弟が所有することだ。1961年まで、兄弟は自分たちの名前を冠する会社に対して、全面的な権限を持つつづけ、そのことがクロックをいらだたせていた。クロックは270万ドルを借金して、マクドナルドを買い取った。ソンボーンが、プリンストン大学主宰の小さな機関投資家グループと取引をして、資金を調達したのだ。買い取りが決まると、マクドナルド兄弟は、会社発祥の地であるサンバーナディーノの店を手離したくないと言い張った。「その店はビッグMと改名されていて、結局、わたしはその店の向かい側にマクドナルドの店を開店させた」クロックは自伝の中で誇らしげにそう記している。「それでようやくふたりを追い出せたのだ」

マクドナルド兄弟がその後どうなったかは分からない。

P.S.

クロックには wikipedia にも項目があるようだ → レイ・クロック

「ファーストフードが世界を食いつくす」で引用されているクロックの自伝は邦訳が出版されているみたい。私はまだ読んだことがないが。

成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝―世界一、億万長者を生んだ男 マクドナルド創業者 (PRESIDENT BOOKS)

成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝―世界一、億万長者を生んだ男 マクドナルド創業者 (PRESIDENT BOOKS)

*1:エリック・シュローサーのバイアスが掛かっているとは思うが。