ドーキンス VS グールド

ドーキンス VS グールド (ちくま学芸文庫)

ドーキンス VS グールド (ちくま学芸文庫)

スティーブン・グールドとリチャード・ドーキンスは、生物の進化をテーマにした一般向けの著作の巨匠 (だった)。
ドーキンスはオックスフォード大の動物行動論の学者で、メイナード・スミスや G・C・ウィリアムズの考え方を元にして「利己的な遺伝子」「盲目の時計職人」を著した。自然淘汰の単位は究極的には種でも個体でもなく遺伝子であること、個体レベルに見える利他的行動は遺伝子のレベルの「利己的性」から生じているということを説く。
一方グールドはハーバード大の古生物学者で、Natural History Magazine に生物学全般の話題を扱ったコラムを書きつづけてる文筆家でもあった。グールドは同僚のナイルズエルドリッジと共に「断続平衡説」を発表し、変異と自然淘汰の積み重ねによる漸近的な進化のイメージに異を唱え、種は変化の少ない平衡時期が続いた後比較的短い時間に急激に変異するという説を唱えた。
この二人は学問的にはまったく反りが合わず、グールドは「利己的な遺伝子論」や E・O・ウィルソンの社会生物学を鋭く非難し、ドーキンスは「断続平衡説」を叩くという大論戦が何年にも渡って続けられ、舌戦は学問的なものから政治的・痴情的なものに広がっていった。

本書はその大論戦の入門書だ。著者のキム・ステルレルニーは学問的にはドーキンスの側にシンパシーを感じているのだが、両者の主張をできるだけ中立的な立場で記述しようとしている。そのため非学問的な対立点は残らずカットして、進化学上の問題にだけ集中して検討している。また学問的な対立点も細かい内容には立ち入らずアブストラクトに留めている。そのため本書は内容のわりに 200 ページ足らずと大変に薄い仕上がりだ。それでもドーキンス、グールド、エルドリッジ、デネット、オルコックなどが、うまく要約されていると納得する。

不満点としては、ステルレルニーはグールドを「中立的」に描きすぎている点だろうか。例えば、第8章の冒頭でステルレルニーは「この仮説は二つの重要な点で誤解されてきた。断続平衡説をめぐる初期のいくつかの議論では、地質学的時間と生態学的時間の違いが曖昧になってきた。そのため、グールドとエルドリッジが非常にラディカルな主張をしているようにみなされたのである。」と書く。しかし初期の議論が曖昧になったのはグールドとエルドリッジが自分たちの説が地質学的時間を扱っているのか生態学的時間を扱っているのかをはっきりさせなかったためだという人もいる。実際、グールドとエルドリッジが断続平衡説について書いたものを読むと、時期が後に書かれたものほど内容が具体的になっていく。後だしジャンケンくさい。このようにグールドが断続平衡説の擁護や遺伝子決定論への非難を行う際には、なんともいえない曖昧さが滲んでしまうのだが、そこが非学問的な論争の火種になる。ステルレルニーはそういう部分を全部 「好意的に解釈」することで中立化しているようだ。

それはそれとして、グールドは 2002年に癌でなくなった。ドーキンスとグールドは進化学の学説上の食い違いからいがみあってはいたが、「生物は進化したのは真実」という認識は共有している。リチャード・ドーキンスの最新作「悪魔に仕える牧師」を読むと、二人は手紙のやり取りしながら連名の創造論批判の声明を出す段取りをしていたという話が出てくる(グールドが死んでしまって果たせなかった)。
二人のメールのやり取りを読むとしんみりさせられて、ドーキンス v.s. グールドの論争は永遠に終わったということを思い知らされる。

悪魔に仕える牧師

悪魔に仕える牧師